ヒルマン監督率いる日本ハムは06年、パリーグの優勝と日本一を達成しました。

快挙達成の理由の筆頭には、ヒルマン監督の「日本流野球への転向」が挙げられます。


ヒルマン監督は03年の就任以来、「わざわざ1つアウトをくれてやることはない」と送りバントを頑なに拒んできました。
 

 
しかし05年の秋に千葉の鴨川で行われたキャンプでは、フロントに対して「選手にバントをやらせるつもりだ」と宣言したのです。メジャー流の考え方を改めたわけです。
 
キャンプでは若手を中心に徹底的にバントを練習させました。
 
それが功を奏して、06年の田中賢選手はリーグトップの34犠打をマークし、チーム全体でも133犠打を記録しました。これもリーグ1位の記録です。
 
それまですでに持っていた打線の爆発力に、つなぎの打撃がプラスされたわけです。
 
日本流に転向する以前のヒルマン監督は、「肩は消耗品」というメジャー流の考えから、春季キャンプの投げ込みを制限していました。
 
しかし06年のシーズンからは、投げる球数などについてピッチャーから意見を聞くようになり、一方的な投球数制限をやめたのです。
 
また監督が一軍と二軍間のコミュニケーションを密にしたこともチームに非常に大きなプラスになりました。
 
二軍の首脳陣に「自分の考えが間違っていた」と頭を下げたこともあったのです。