イチロー選手は、しばしば「天才」と呼ばれます。
 
これに異論を唱える人はまずいないでしょうが、この「天才」が「生まれつき(野球の)才能を持っており、努力しなくても突出した結果を出せる人」を意味するのであれば、それはイチロー選手には当てはまらないようです。

というのもイチロー選手が球史に残る実績を残せたのは、並外れた努力の結果だからです。
 
このコンテンツでは、そうしたイチロー選手の努力の一部を紹介します。(週刊現代2013年4月6日号(Amazon)167~170ページを参考にしています)

パンチ佐藤氏が目撃 イチロー選手の努力エピソード

イチロー選手は小学校時代から、父・宣之さんと共に野球の練習を続けてきました。
 
その努力は当然プロになっても続き、内容はプロらしいものに変化しています。

彼が91年にドラフト4位で指名された後、「凄いヤツが入ってくる」という情報が入ってきた。ただ、沖縄の春季キャンプで見たかぎりでは正直、「細いな。モノになるまで5~6年かかるだろう」と思っていましたね

送球もスイングも、イチロー選手の非凡さを物語っていましたが、佐藤氏は「いますぐ自分を脅かす選手ではない」と評価していました。
 
何より佐藤氏自身が89年にドラフト1位で入団した後、1年目から3割の実績を残していたのです。
 
しかしこのイチロー選手に対する評価は、すぐに改めさせられることになりました。

ナイターが終わって宿舎に戻り、晩飯を食べ終えると、誰かが打ち込んでいる音がする。見ると、イチローがマシン打撃をやっているんですよ。深夜0時頃に音が止んだかと思うと、今度はガチャンガチャとウエイトトレーニングをやっている音がする。それが3時まで続く。
 
道具にもこだわっていて、18歳の若造がバット工場まで行って、職人にあれこれ注文をつけているという。モノが違うな、という選手は他にもいましたが、ここまで努力できる男はいない。「こりゃダメだ。すぐに抜かれる」と青くなりましたね。
 

この努力の成果はすぐに表れます。
 
イチロー選手は入団1年目にはファームの首位打者を獲得して1軍に昇格。
 
94年にはレギュラーに定着し、日本記録となる210本のヒットを放って首位打者に輝いたのはよく知られています。
 
以後、01年にマリナーズに移籍するまでこのタイトルを保持し続けました。
 
イチロー選手が「天才」と呼ばれるようになったのもこの頃ではないでしょうか。





メジャーリーグへ いきなり洗礼?ハドソン投手 その後は

しかし天才イチロー選手でもメジャーではいきなり洗礼を受けます。
 
01年4月2日、イチロー選手のメジャーデビューは対アスレッチクス戦でした。先発はティム・ハドソン投手。
 
イチロー選手はセカンドゴロ、ファーストゴロ、三振とハドソン投手に完璧に抑えられてしまうのです。
 
スポーツライター・友成那智さんの解説です。

ハドソンのシュートしながら沈むツーシームは球威があるうえにコントロールが抜群にいい。
 
最初の3年間、イチローは彼から1割7分4厘しか打てていません。しかも、ヒットのほとんどが内野安打かゴロですから、お手上げですよ。
 

この年のハドソン投手の成績は18勝9敗、防御率は3.37です。
 
「相性」の問題と言えるかもしれませんが、そもそもメジャーではマイナーから上がってきたばかりでも160km超えの剛速球を投げる投手が多数います。
 
イチロー選手でも「これは大変だぞ」と考えたのではないでしょうか。
 
そこでとった対策が
 
「より長くボールを見て、より速く反応し、よりミスショットを減らすこと」
 
でした。
 
加えて、フィジカル面でも試行錯誤を重ねます。
 
スポーツライター・臼北信行さんの解説です。

実はマリナーズ移籍に際して、イチローは7kgほど体重を増やしました。もちろん、力負けしないため。そして首位打者にMVP。
 
新人王と1年目から結果を残したのは周知のとおり。ですが、翌年、イチローはあっさりと元の体重に戻しました。理由は「身体を大きくしたことでパフォーマンスが落ちたから」。目先の結果には惑わされないということでしょう。

こうした努力の結果、イチロー選手は04年以降、ハドソン投手を9打数6安打と打ち崩しています。
 
イチロー選手が「努力する天才」もしくは「努力の天才」であることがわかるエピソードではないでしょうか。