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1989年、イチロー選手は地元愛知の名門・愛工大名電高に入学し、寮生活を始めます。

(このコンテンツは週刊文春 2016年 6/30号(Amazon)34ページを参考にしています)

愛工大名電高時代の宣之さんは監督にとって煙たい存在だった?

同校野球部元監督の中村豪氏が当時を回想します。イチロー選手、宣之さんともに強く印象に残っているようです。

中学三年で初めてイチローと会った時、彼は「僕の目標は甲子園じゃありません。プロ野球選手にしてください」と言ってきた。
 
入部後、親父が毎日三時過ぎにやってきて、最初は鬱陶しかったよ。監督の監督に来ているんじゃないかって(笑)。
 
バッティングやっとると後ろで見とって、ピッチングが始まるとブルペンの後ろで見て、メモを取るんだもん。
 

もちろん、ネガティブな印象だけではありません。

冬の寒い日にドラム缶で火を焚いて当たっておったことがあった。「お父さんも当たれよ寒いで」と言ったら、お父さんは「イチローが寒い思いをしとるのに僕は当たれません」って。凄い一体感だったね。

高校時代の目標「公式戦で打率10割」

高校時代のイチロー選手は甲子園に二度出場していますが、いずれも初戦で敗退しています。
 
プロ生活は91年、オリックスにドラフト四位で指名され、翌年の入団から始まります。
 
オリックス元球団代表の井箟重慶(いのう しげよし)氏が驚いた、イチロー選手のエピソードです。

ある日、イチローは私に高校時代のことを話してくれました。高校三年間は一年ずつ目標を立てていたそうで、三年生の目標は何だったのか聞くと、「公式戦で打率十割です」と真顔で言うんです。
 
普通の人が聞いたら馬鹿じゃないかと思うでしょ。イチローも「みんな笑うんですよ」と言っていました。
 
実際、高校最後の年は打率八割くらい打っていた。
 
プロデビュー後もそうですが、イチローは立てる目標がめちゃくちゃ高いんですわ。
 

オリックス入団直後の二軍生活 宣之さんの解釈は?

井箟氏によると、イチロー選手はプロ入りと同時に「親離れ」を宣言しています。

イチローはオリックスに指名された後、宣之さんに対して、こう宣言したそうです。
 
「今までありがとう。でも、僕はプロになったんだから野球のことはもう口出ししないでほしい」と。

しかしイチロー選手はオリックス入団後、試練に直面します。
 
よく知られているように、土井正三監督に”振り子打法”を否定され、二年間の二軍生活を経験するのです。
 

 
しかし三年目、仰木監督のもとで才能を開花させ、210安打の金字塔を打ち立てます。
 
この二年間を、宣之さんはどうとらえているのでしょうか?

プロ野球に入ってからも悔しい思いをしてきたと思いますよ。土井監督がイチローにどれだけの悔しさを与えたか。
 
でも、一年目、二年目の悔しさがバネになり、三年目の大爆発を起こしたんです。
 
私はいつも「土井さんのおかげだよ」と言っています。イチローにエネルギーを貯めたのは土井さんなんですよ。

イチロー選手、宣之さんのコンビが成功できたのは、周囲から笑われても、逆境でも高い目標と信念を貫き、努力を継続できたから、と言えそうです。